みなさんこんにちは。YA-SUさんからバトンを渡されたのにもかかわらず、半年以上も引き出しの中に仕舞いっぱなしにしていた天然求心力アルファの山口純です。
この度はこのブログリレーの原稿が遅くなって本当に申し訳ありませんでした。理由などなく、ただただ山口の怠惰が招いた結果でございます。YA-SUさんをはじめ、今までリレーをつないでいた皆様、非常に失礼な事をしてしまい申し訳ありません。
そんな山口の文章など読みたくないわ!という方のために、先にバトンを渡しておきたいと思います。
疾風の如く名古屋演劇界(のとあるカテゴリ)に現れ、その強烈なキャラクターで見るもの全てを圧倒し、『好きなものは、食べ物です!』が合言葉のナイスガール!「劇団いがいと女子」の長沼日登美、通称トミーに次のバトンをお渡ししたいと思います!
トミーさん、『好きなものは、食べ物です!』とのことですが、その大好きな食べ物の中で、「一番好き」なものと、「最後好き」を教えてください!
さて…
バトンをいただいたYA-SUさんと出会ったのは’96年だから…22年前になりますか。当時YA-SUさんが所属していた「演劇襲団海賊船II」の東京公演に僕が客演させてもらった時ですね。あの時は(それ以降も)右も左もわからない若造の僕に色々ご指導していただきまして本当にありがとうございました!
そんなYA-SUさんからの質問『今、一番ハマっているマンガ及びアニメは何ですか?』ということですが、漫画は大量に買いますが、今は色々時間がなくてアニメはほとんど見ないんですよね…。
「一番ハマった」というところで考えると、「赤い光弾ジリオン」でしょうか。僕をオタクの世界に引きずり込んだ記念すべきアニメです。もしくは最後に大ハマりしたアニメ「ふしぎの海のナディア」のどちらかかと思います。どちらも20年以上前のアニメなので若い子にはもちろん通じないでしょう…。
漫画はいろんなジャンルを節操なく買っていますが『今、一番ハマっている』というなら、うーん。次の巻が出るのが一番待ち遠しいのは(山口はコミックス派)webマンガだった頃からハマってた「徒然チルドレン」でしょうか。こんな歳になって今更学園ラブコメにハマるとは思っていませんでした。高校の頃にできなかったキュンキュンした気持ちを疑似体験できますので皆さんも是非読んでみてください!あ、キャラの書き分けが非常に甘いです!
さてさて…
ブログリレー的には「何を書いても構わないです」と言われております。そんな中、アレを書いてはボツにして、コレを書いてはボツにして…と無駄に時間ばかりを浪費していましたが、折角人の目に触れるものを書くわけですから少しでも読んでくれる人の役に立つようなモノを書こうと思い、この度は僕が「芝居を本気で辞めようと思った時」の事をお話ししたいと思います。
タイミングは人それぞれだとは思いますが、「芝居を辞めよう」と思うことは長く演劇に携わっていると必ず訪れるモノではないでしょうか。
それでも僕が今でも芝居を続けている事を考えると僕にとってのそれは運良く(?)乗り越えられるものだったからだと思います。
内容的には結構ネガティブな感じになってしまいますが、「辞めようと思う時」はどういう時なのか、どのようにして「続けよう」と思ったのか、そんなお話をさせていただきます。
わたくし山口ですが、「天然求心力アルファ」という劇団で主宰をやっております。たまに演出もやったりしますが基本的に役者をやっています。
スキンヘッドと大きいガタイという特異な見た目からか、いろんな劇団さんにちょこちょこ客演として呼んでもらったりもしています。ありがとうございます。
そんな中、色々なジャンルのお芝居をしたくて別の団体にも所属していたりします。特に明記はしませんが、その別団体『劇団A(仮名)』での話です。
(劇団Aはとある理由で現在活動していませんが、僕は劇団Aが大好きですし、今でもやりたいと思っています。ディスるつもりで書くわけではない為、表現がボケボケになってしまう事をご了承ください。)
劇団Aで何年かお芝居を作ってきましたが、とある大会で賞をいただきました。その時の芝居は自分で言うのもなんですがかなり面白く、賞を取れたのも納得の出来だったと思います。
その賞の副賞で、『1年後大きい劇場で会場費無料で公演ができる権』をいただきまして、劇団Aは一年後に向けて準備をする事になります。
その団体の代表A氏は僕たちの世代では非常に有名な作・演出家で、一緒に芝居を作れる事が僕はとても嬉しく、刺激的で、芝居を作る事が楽しくてしょうがありませんでした。
もちろんそれまで作ったお芝居はA氏の作・構成・演出で作られていました。
A氏の指導は厳しくもあり、楽しくもあり、そんな中で作られた芝居は笑いあり、涙ありの楽しい芝居ばかりでした。
しかし、そのA氏の指導はその大会の前後辺りからなぜか「厳しさ」だけが増すようになります。
賞を取ってからの1年間、ずっと1年後の公演の稽古をしていたわけではありません。
劇団Aの劇団員達は僕と同じくほぼ全員別の団体にも所属していたので、しばらくは各々の団体での活動をしていました。
あと何ヶ月で本番!というタイミングでその公演の稽古が始まりました。
A氏は常々「役者に台本を渡すと『セリフ』を喋ってしまう」と言っており、基本的に台本を役者に与えません。(これについては今思うと非常によくわかります。会話にならず、セリフの言い合いだけになってしまっているお芝居は今でもあちこちで見かけます)実際賞をとった前述のお芝居も台本はありましたが、役者に配られたのは本番前日の稽古後でした。
今回のお芝居も同じようにプロットだけが渡され、即興形式での稽古が始まりました。
稽古の時間は夜22時から明け方まで。なぜそんな時間になっていたのか、そしてなぜ劇団員たちがそれで稽古できていたのかは覚えていません。というか、この辺りの記憶が曖昧なのです(後述)。多分日中は各々が仕事をしていたからでしょう。…ホント、いつ寝てたんだろう?
稽古が進んで行くうちに段々とA氏の言動が荒くなっていきました。
「面白いこと言えや!!!」
「お前ら、本当に…(いい加減にしろよ)!!!!」
「なんでそうなるんだよ!!!!!!」
「死ねやー!!!!!!!!!」
などなど。ちなみに全部本気のトーンで叫ばれています。
(「死ねやー!」はそれを言われた劇団員がビビってしまって「は、はい…」と答えているのを見て「うわ、アイツ『はい』って言った!」と内心爆笑だったりしたのですが、今回の趣旨と違うので割愛)
極め付けは夜中ずっと稽古をしてて、なかなか物語が面白くならず、明け方にA氏が自宅で朝の家事をするからと言って一旦稽古から抜けた後。
「どーなったら面白くなるか全員で考えとけ!」と言われ、A氏の自宅近くのデニーズに鍵もないのに監禁されている、みたいな状態になりました。
同じような状況になった方はわかると思いますが(いないと思いますが)、そんな状態になったら多分どんな役者でも、芸人でも面白い案ってのが出ないと思います。追い詰められ過ぎてて。
みんな疲弊してて面白くない案すらも出ない。思考が完全に下向きになってしまっていました。
そんな中家事を終えてデニーズに登場したA氏は怒気をはらんだ声で言いました。
「お前ら、できたか」
もちろん出来て居よう筈がありません。
そんな面持ちで誰も何も答えられなかった僕たちを見て激昂したA氏は、(たまたま端っこに座ってた僕の左に座っていたので)僕が頼んだけど飲んでなかった深入りドリップコーヒーを、僕が頼んだけど全く食べる気が起きず残っていたモーニングセットのパンの上にぶちまけて言いました。
「本当に…いい加減にしろよ…!!!!」
店内だから抑えた音量でしたが、非常に低いトーンで、非常に怒りに満ちた言葉でした。文章だとこの言い方のニュアンスが伝わらないのが残念です。
今思うとこんな芝居の作り方をしていること自体が負のスパイラルになってしまってよくない、ってのはわかるんですが、当時は若かったからか「俺たちは面白くないんだ…」とただただ落ち込むだけでした。いや、そう思ってたのは僕だけだったのかもしれませんが。
そういう稽古の日常とは全く別に、劇団員自体が5人しかいないというのも僕の精神状態の悪化に拍車をかけました。
いや、5人はいいんです。5人は多いほうだと思います。問題なのはデザインの知識を持っているのと、パソコンを使えるのが僕とA氏しかいなかった、という事です。
デザインを考えたり、チラシを作ったり、webサイトを作ったり、データをまとめたり、DMの発送作業の為の準備をしたり…あ、本当に、ホントーーーーに、劇団の制作作業は制作の専門の人がいたほうがいいと思います。
基本A氏は忙しい人で、稽古以外の時間は他のお芝居関係の仕事をしていました。なので必然的にパソコンでやるような作業は全て山口がやっていました。
(これも今思うと作業を誰かに振ればよかったと思えなくもないですが、振る時間もなければ振ったところで他の団員はできない…そもそも日中は仕事もあるのでそんな事考える時間的余裕もありませんでした。)
僕だけそんな状態(稽古→制作作業→仕事→稽古…)で稽古に臨んでいたのでだんだんと他の劇団員との差が開いていきました。一番若いB君は積極的にA氏に挑み、高評価を得るようになっていき、他のメンバー(前述の『死ねや』と言われた団員以外)もだんだん余裕が出てくるそぶりが見て取れるようになりました。
『クソが!お前ら芝居の事考える時間があって良かったな!!!』
心の中で毒付いてる状態が日常になっていました。
三月の初旬、本番を数日後に控えたとある日、何かの制作作業の考えをまとめるために自宅近くの川沿いでタバコを吸ってる時にA氏から電話がありました。
その時の話の内容は覚えていませんが何かの会話(多分責められてる)をした後、僕は何かに耐えられなくなってこう言ったのだけは覚えています。
「僕だって頑張っているんです。」
多分その時僕は泣いていたと思います。よく覚えていません。この文章を書いている今、胸の奥がぎゅーっとなっています。
それを聞いたA氏の言葉もよく覚えています。多分一生忘れません。
「…。純君からそんな言葉は聞きたくなかったな…。」
いやいやそうだよ、『頑張ってる』なんて言葉は自分で言うもんじゃなくて他の人からの評価の言葉だよ。わかってるよ!そんなことは若いとはいえいい大人なんだから言われなくてもわかってるよ!
ただね、自分自身でそんな戯言を言わざるを得ない状況だったって事は分かって欲しかったんだよ!!!
そのA氏の言葉で完全に『芝居を作る』という心が折れました。その後どんな話をしたのかも、やっぱり覚えていません。
でも電話が終わった後、「僕はお芝居には向いてないんだな」と思ったことは強烈に心に刻み込まれています。
でも、公演を頓挫させるわけにはいかないのでその日からは制作作業の事しか考えませんでした。
web予約のリストも作らないといけないし、(受付のシステムを僕が組んでいたので)本番当日の受付さんに引き渡しもしないといけないなど、本番が近づけば近づくほど制作的にやる事はどんどん増えていきますからね。
稽古に行っても、小屋入りをしても制作作業を優先し、A氏と稽古をすることはありませんでした。というか、誰とも稽古をした記憶がありません。プロットと段取りは頭に入っているから何とかなるだろう、もう知らん。という最低な気持ちで本番に臨みました。
本番直前「結局純君は俺と稽古しなかったなあ」とA氏が僕にぼそっとつぶやいた時、僕は何も答えることができませんでした。ああ、あの時僕は何を考えていたんだろう。
で、本番。舞台上で制作の事を考えなくてよくなった「役者・山口純」は、窮鼠猫を噛む、なのか。本番ではそこそこ受けました。そこそこね(ちなみにB君は大ウケでしたが)。芝居もキチンと成立しました。多分ね。プロットと段取りだけは何度も頭の中に叩き込みましたから。いや、でも、やっぱりあんまり覚えてないや。覚えているのは全体的に非常にアーティスティックな芝居になった、ということだけです。
最終公演が終わった後、打ち上げでA氏が「純君はやっぱり追い詰められたら面白くなるなあ」と言った時には「ああ、もう、この人は…なんだかよくわかんないな…」と、言葉にできないような感情でいっぱいになったことは覚えています。
後日妻に当時の様子を聞いたら「あの時の純君は本当に鬱っぽかったよ」と言っていました。心配されていたのはわかっていましたが、体調のことだと思っていました。精神のことも心配されていた事は全然わかりませんでした。いや、そういう事がわからないような精神状態だったのでしょう。
この辺りの記憶は本当に曖昧で、何を考えて何をやっていたのか全然思い出せません。
「自分は芝居には向いていない」と思いながらも五ヶ月後に自分の劇団「天然求心力アルファ」での本公演が、その三ヶ月後に他劇団への客演がすでに決まっていたためにずるずると辞めずにやり続けていました(芝居はもちろん真剣に)。自分が主宰の団体でお粗末な姿を見せるわけにはいかないと発奮して臨んだからか精神的な落ち込みからは回復し、結局劇団Aの次の公演にも参加することになります。(ここでもまた軽く追い詰められますが、2度目なので精神的に大きな落ち込みは前回よりかは幾分マシでした)
で、劇団Aのその次の公演にも参加したところで、詳細は伏せますがA氏が名古屋を離れる事となり劇団Aは事実上の解散を遂げます。
劇団Aの旗揚げから解散までメンバー的には入れ替わり立ち替りで約25人ほどいましたが、最初から最後までいたのは僕一人だけでした。
これ、なんなんでしょうね。まあ、結局のところ多分好きなんでしょうね。A氏も劇団Aも。
(余談ですが、解散から五年くらい経ったある日、twitterでA氏が「名古屋にいた時はなぜ僕はあんなにも怒っていたんだろう。あの時のみんな、ごめんよ」などというツイートをしており、それをB君からの「純さん!!A氏、twitterでこんなこと書いてますよ!!」という電話で知った。二人で「何言ってんだ!!!!」と電話越しに同じツッコミをしたのも今となってはいい思い出です。)
ブラック企業に勤めている人が社畜となる時、会社で起きる何もかもに全て否定しなくなるように、狭いコミュニティでじわりじわりと追い詰められていくと(それが急なら『逃げる』ことも考えるのでしょうが)、多くの人間はそのままおかしくなります。本人は一つもおかしいと思わないまま。
今では「昔の演出家」と呼ばれる人たちもすっかり丸くなって「牛乳パックを投げつける」だの「灰皿を投げつける」だの「大声で怒鳴り散らす」だのをする人はだんだん減ってきています。
それらの「激しい演出」を否定するわけではありませんが、僕は「楽しく芝居づくりをしたい」と思っています。和気藹々と、笑い合いながら作っていきたいな、と思っています(もちろんシメるところはキチンとシメて)。
どちらが正しいということではなく、その時はそういう「時代」で、今はまた違う「時代」なんだと思います。
僕は心が折れた後、芝居を辞めようと思った後、偶然にも立ち位置が全く逆になる状況(ダメダメないち構成員→劇団主宰・演出)がたまたまあってなんとか芝居を続けることができ、結局その後今までずっと芝居をやり続けていることができていますが、その状況がなかったらもうとっくに名古屋演劇界からいなくなっていたかもしれません。(いやまあ僕程度の役者がいてもいなくても、お芝居をやる人がいなくならない限りはそんなことはどうでもいいのかもしれませんが)
でも、色々な事由で「辞めなければならない」状況に陥ってしまい、「悔しいけど辞めざるを得ない」事になってしまった人も僕はたくさん見ています。
しゃーない、そういう事はあります。例えば金銭的な問題、家族の問題、僕は運良く回避できましたが精神的な問題…。
僕が今でもお芝居を続けていられる理由をとてつもなく簡単に言うと「辞めなかったから続けられている」ということです。そりゃそうだ、至極当たり前の話です。
辞めなければ続けられます。例え一旦休んでも、自分が「辞めた」と思わなければいつか、いつか続きをやることができます。
実際五年以上芝居を休んでいて、その後復帰をする役者さんも名古屋にはたくさんいます。いや、僕が知らないだけで至る所に居るでしょうね。
辞めたくなければ「辞めた」と思わないでください。思わないだけでいいと思います。
「お休みする」とでも思っておけばいいんです。ずっとやってると疲れちゃいますからね。
でもまあそんな感じで続けていたおかげで、我が劇団「天然求心力アルファ」は’99年が旗揚げなので来年で20周年を迎えます。いやー、20年!続けてみるもんですね!
というワケで来年は色々やりたいな、と思い…
2019年1月頃:20周年記念公演第一弾 リトライ公演「drug artist」
(第2回公演の再演!)
5月:20周年記念公演第二弾 番外公演「みんな!即興だよ!4」
(毎年GWの終わりにやってます!次で4回目!)
11月頃:20周年記念公演第三弾 第17回公演「ドメステック・パブリック(仮)」
(テーマ:ネオ時代劇!/同い年の20周年劇団「よこしまブロッコリー」さんとのコラボ企画も計画中!)
の三本の公演をやろうと計画しています!みなさま、ぜひ観に来てください!
http://www.tennnen.net/
という宣伝の流れで再来月、2018年8月の12日の土曜日、東三河になりますが、「東三河演劇フェスティバル」という演劇祭の「わーいわーいDAY」という参加企画に「みんな!即興だよ!SP」というタイトルで即興芝居、殺陣演舞、アイドルデビューごちゃ混ぜのイベント公演を豊川市の豊川市音羽文化ホール(ウィンディアホール)でやらせていただきます!三河に近い方も近くない方もぜひお越しください!
http://higashimikawa-enfes.com/
あ!あと、11月に菊生宗さんプロデュース「キクマサプロジェクト」の次回公演「安土桃山エレファント(仮)」にも(妻・川崎と共に)客演させていただきます!11月の22日(金)〜23日(日)で5回公演です!
(ちなみに作・演出の「足立拓也」さんはその昔「間拓哉」という名前で、名古屋で活動していた「超光速TOY SOLDIERS」の作・演出を担当していました!
名前の通り高速で名古屋演劇界を席巻して消えていった劇団で、最終公演は観ていて鳥肌ものでした。「すげー芝居を作る人がいるもんだ!」とただ観ていただけの方と一緒に芝居が作れるなんて嬉しい!これも長く続けていたおかげですね!)
メチャメチャ長くなった上、最後は宣伝ばかりになって恐縮ですが、これからも山口純、辞めるときが来るまで辞めないでお芝居を続けていきたいと思っております。
みなさま、今後とも山口純と天然求心力アルファをよろしくお願い致します!
(実は山口は旗揚げしてから2年後、(悪くない意味の)女性関係で一度お芝居を辞めております。その話を聞きたい方は直接山口にお尋ねください)
最後に、今回はこの原稿の脱稿が非常に遅くなり関係者のみなさまに本当に迷惑をおかけいたしました。
改めてお詫び申し上げます。