投稿者「名古屋演劇アーカイブ」のアーカイブ

ニシムラタツヤ さん

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みなさま、ニシムラタツヤです。
天野順一朗さんからご紹介を頂きまして、一筆啓上申し上げます。

簡単に自己紹介をいたしますと、郵便局員の両親のもとに長男として生まれて30年と少し。育ったのは一宮市のもっとも岐阜県寄りの浅井町、演劇に関わるようになってからは主に名古屋市内と岐阜市内をうろうろする毎日を送っています。

大学3年生の冬、近隣の同級生で集まって結成した「集中チ療室」が、実質的なキャリアのはじまりになると思います。6年3ヶ月、11本の舞台に参加した後フリーとなり、現在の屋号である「AfroWagen(アフロワーゲン)」を名乗りました。

特に深い意味はなく、ある時期アフロヘアに近い髪型で、また別のある時期にはそういう名前の会社のクルマに乗っていたということで、語感優先で組み合わせたものです。ただその前に、自分の志向として2つの単語をつけました。

「声とインプロAfroWagen」( http://www.afrowagen.net/

「声」というのは今現在、名古屋と岐阜で続けている朗読会「三十代の潜水生活」で、「インプロ」は(現在お休みしていますが)、Improvisation(即興演劇)のことを指しています。皆さん、岐阜は遠いようで近いです。いい街ですよ岐阜。名古屋駅からJRの新快速で20分です。是非聴きに来て頂きたいと思います。毎月やってますので。

実は私、もともとは小学校の放送委員会を皮切りにずーっと、放送の人だったんのです。ゆくゆくは在名局、特にCBC(中部日本放送)のアナウンサーになってラジオ番組のパーソナリティをやる!その頃でいえば「富田和音株式会社」であり、「ラジオでフライデート・夜はこれから」や「メディアキング電波ファイター」であり、「土曜の夜は私が主役」であり「Tokyo Live Station」であったわけです。まあ、他にも東海ラジオの「さだまさしのセイ!ヤング」であり、岐阜放送ラジオの「ヤングスタジオ1431」でもあったわけですが。

しまったしまった。つい熱が入ってしまいました。そんなラジオ少年が高校2年の秋、チケットが完売して観に行けなくなったプロジェクト・ナビ(!)の「けんじの大じけん」の代わりにしょうがなく選んで名演小劇場で観た演劇にノックアウトを喰らってしまいます。そして大学からは演劇やる!と決めてしまったのです。劇団の名前は惑星ピスタチオ。タイトルは「信長華舞台」。桶狭間の合戦の前夜の軍議に悩む織田信長方に、突然空から「チャート式日本史」が降ってくるというスト-リーが未だ印象深いですが、今になって思えば、それから13年後に、その創り手である西田シャトナーさんと共演することになろうとは。

わからないものです。本当に何事も。なんでこんなに長々と自己紹介しているのかも含めて。

だから、前回の天野さんからの質問「継続して活動していく上で一番大切なことはなんですか?また、モチベーションを維持し続けるための秘訣を教えて下さい。」への回答の1つ目も以下の通りとなります。

「わからない」

えっ?これじゃだめ?そりゃだめですよね。では、もう少し補足しましょう。ちょっと偏屈言いますがご辛抱下さい。

まず、「継続する」という状態というか動作そのものが、自律的な側面と他に依存している側面、両方あるのはお分かり頂けると思います。すなわち、自らの台本書いたり演出したり、俳優として舞台に立ったりすることもあれば、招聘されてどこかの企画に参加することもある。どちらの場合も端から見れば演劇に関わっているという「キャリア」は「継続」していることになります。

と、同時にそれぞれの場で形成された人間関係も継続しているわけです。同じ座組ともなればいきおい関係の濃淡も生まれるわけでして、そこで「団内恋愛禁止」を謳ったりするところや、そういう網を「大脱走」のスティーブ・マックイーンよろしくバイクに2ケツで突破を試みる場合だって生まれてきます。ちなみに私は生まれつき老成しきった状態で出て来、歳を重ねる度に子どもに戻ってゆく、まるでさだまさしの名曲「療養所(サナトリウム)」を地で行く人生を過ごさせて頂いていますので、幸いそれらとは無縁な穏やかな毎日を過ごさせて頂けることにお手々の皺と皺を合わせて両親にしわ寄せです。本当に申し訳ありません。

それはともかく。

演劇が、その題材がフィクションであれノンフィクションであれ、人間の社会的関係のさまざまな要素を用いて創造する芸術である以上、その創り手である演劇人も、その人個人が持っている社会的な位置付けにつとめて意識的であることがまず前提として必要です。私もそうですが、演劇人である(こうやって自分でいうのは多分に気恥ずかしいですが)であると同時に勤め人です。このブログをご覧の方の多くも、差違はあれ同じような境遇にいらっしゃると思います。それぞれの立場に自分を寄せてみれば、片方が「ウチ」でもう1つが「ソト」になります。例えば俳優という「ウチ」から日々の会社での毎日という「ソト」を見る。もしくはその逆。台本の読解のために、演出プランの検討のために、はたまたチケットの売り方の工夫のために、一方からもう片方を照射することで生まれるアイディアの豊かさに自分でもびっくりした、という経験をお持ちの方、実は多いのではないでしょうか。

そういう複眼的な視点を持ち続けようとすれば、2つ目の質問にも関わってくる話ですが、「モチベーションを維持」するための種は、意外なところからでも大した困難を伴うことなく掘り出すことができるかもしれません。

そんな偉そうなことを宣っている自分も、今まで書いたことはいきなり思ったことではなくて、長い期間をかけて少しずつ感じてきたことの積み重ねだろうなとも感じています。その私が昔はどんなことを考えていたかもお伝えしておきたいと思います。

7年ほど前、東京の小劇場、いや、日本の小劇場全体から見ても知らない人がいないであろう、某団体に所属していた後輩の女優の芝居を観に行った後、アフタートーク後ということで打ち上がっている時、ふとしたきっかけで言い合いになってしまったことがあります。

きっかけは私が口にしたことであり、今となっては後悔しかないのですが、「いいじゃん東京は。今のとこ辞めてもどこか(の劇団やユニット等)で活動が続けていけるんだろ?」という主旨でした。これに対して「何いってんですかニシムラさん!」と。そりゃそうですよね。

その時の私は「東京以外の、例えば名古屋みたいな田舎じゃな、続けることがまず第一なの。辞めたら最後どこかにいくほど裾野は広くないし、そうでなくても(私みたいに)いい歳した奴に周りからのプレッシャー、きついんだぞ」と言葉を継いだのですが…。

これだ、と思い定めて彼女のように役者なり、はたまた劇作なり演出なり、制作者を続けている人々に対してこんな失礼な物言いはなかった。それを気付くべきでした。その視点には、未来を見通そうとする高さも、地域差をとらえる広さもありませんでした。

加えて、「東京は◎◎」「名古屋は●●」という優劣関係のみに落とし込んで物を言おうとしていたことに、振り返ってみるとひどく落ち込みたくなります。複眼の不在、ですね。現在、首都圏以外のおびただしい数の地域で創作された演劇作品なりカンパニーが、それまでの知名度の有無に関わらず全国に知られるところになるという例が増えてい

ます。それはソーシャルメディアの力によるところも大きいのでしょうが、それらを介して触れる可能性がほとんどなかった表現に出会って生まれるものもないとは限らないのです。これは私が具体例が出さぬとも、この「名古屋演劇アーカイブ」でも数多く紹介がされています。ぜひそちらをご覧頂ければ。

長々と書いてきましたが、つまるところ最初に簡単にまとめようとした答えは、

「複眼的な、高くて広い視点。(何が大切になるか、そのきっかけが)わからない」

こうなりましょうか。

次回のブログリレーですけども、こういう抹香臭いことを書く私とは全く方向の違うことを書く、試験管ベビー主宰のかこまさつぐ君にお願いしたいと思います。気付けばもう10年以上の付き合いになりましたが、質問は、「主宰者として、これまでにしたこれは大きいなあと思った決断は何だった?またその時の心境は?」という感じで。よろしくおねがいいたします。

またナレーションで使ってくだされ。テヘペロ。