こんにちは、清水翼と申します。
現在は、名古屋であいちトリエンナーレの事務局で働いています。ここに来る前は、大阪で、維新派(http://www.ishinha.com/)という劇団に10年ほど制作者として所属し、その間に、このブログリレーのバトンを渡してくれた新田君や、トリエンナーレのキュレーターであり、今の仕事にお声がけいただいた相馬千秋さんとも出会いました。
私は、もともとパフォーミングアーツ、あるいは芸術というものには縁遠く、小学生の時も本を読むのだけは好きだった記憶がありますが、中学も高校もずっと部活のサッカーばかりしていました。大学では外国語大学に入学し、ハンガリー語を専攻し、2003年にハンガリー留学から帰ってきたら、友達が学生劇団を始めていて、その手伝いをし始めたのがこの世界に入るきっかけでした。そのときは、芸術はよくわからない世界で、わからないからこそ自分で調べてみたり、いろんなものを見てみようと思って、演劇やダンスだけでなく、映画や美術も初めて見始めました。その頃感じたのが、自分が学んでいる言語よりも芸術はユニバーサルだなと思ったんです。今も、新しい言語を聞くとワクワクするし、いろんな言葉をしゃべれる人は、かっこいいなぁと思うのですが、“作品”に比べると、やっぱり言語はツールだな、と感じてしまう。一つの作品を介すれば、共通言語が無い人とでも感情や体験を共有できるのってイイなと思ったんです(サッカーも、1つのゴールで数万人が熱狂して、同じ数だけ嘆く人がいる、あれと同じです)。
そこから、縁があって、維新派に入りましたが、この仕事は想像していた以上に大変でした。多分、こればっかりは、言葉ではなかなか伝わらないと思いますが、維新派での制作の仕事は、生活環境を整えることがスタートで、50人以上が食べること、寝ること、住むことを考えなくてはなりません。「何もないところに劇場を建てる!」というキャッチフレーズは、ある種ロマンチシズムというか魅惑的ですが、つくづく思うのは、言うは易しです。2017年に維新派が解散して、いわゆるクリエーションや公演制作の仕事をするようになって、屋根と壁と電気とWi-fi、これらがそろっていれば恵まれてるな、と強く強く思いました。
新田君からの質問は、「一人のアーティストと長期に仕事をするプロデューサーは、どのようなキャリアプランを立てればよいか」でしたね。私が長い時間一緒に仕事をしたのは、維新派の代表だった松本雄吉だけで、私にとっては、年の離れた兄貴みたいな人でした。もちろん、主宰と制作者という関係なので、時々イラっとすることもありましたが、公演の無いときは、野球やスポーツの話をしたり、美術や舞台芸術の話をしたり、ご飯のことを話していました。また、維新派の場合、年に一回しか公演を行わないので、年中一緒にいる感覚は薄かったこと、そして、作品を作るという共通のゴールはありましたが、それとは別の、生活することやモノの見方、世界のとらえ方とか、そういったことを松本から学んでいた意識があったので、良い関係で仕事を続けられたのだと思います。もし仮に、維新派が、維新派の公演・事業だけで収支を成立させようとしたならば、もっと別の、具体的にはより商業的な方法をとっていたかもしれませんが、そもそも維新派という集団が第一命題としていたのは、年に一度、公演を行うことだけでしたので、制作としての業務は、それに向けてより充実した持続可能な環境を作れるかという点に重きをおいていました。そのことにより、モノづくりをするという本質から、ブレずにいられたことは、1人のアーティストと継続し、このカンパニーで最後まで仕事を続けられた要因の一つだったと今になって思います。
新田君の質問意図からは少しズレるかもしれませんが、自分が、維新派という集団を離れたあとのキャリア形成をどう考えていたかを話します。私が維新派に入った当時は、キャリアプランというほど、将来のビジョンをきちんと考えていたわけではありません。加えて、松本と一緒にやっていた頃は、自分が維新派を離れたあとは、自分がこの仕事を続けるイメージは湧かなかったです。それは、維新派という経験が特殊すぎて、逆に屋内劇場の常識や、制作に必要だと考えていた人脈みたいなことも、自分には不足していると思っていたし、そもそも関西でこういう仕事が経済的に成立するビジネスイメージが持てていなかったからだと思います。松本がいなくなったあと、維新派に関するいろんなことがひと段落ついて、ようやく真剣に自身のこの先のことを考えました。もちろん、維新派が終わってから、いくつかの仕事の依頼をいただいたことや、そのことで自分の維新派での10年の経験も次のステージで活きるのかもしれないと思ったことはありますが、そもそも仕事を続けるモチベーションになったのは、この仕事を通して出会った素敵に面白い人たちと、次に会う時も、自分もこの場所で成長していようと考えたからです。劇団と違い、始終一緒に仕事をしているわけではないですが、ときたま現場が一緒になり、そこで顔を合わせるときに、自分も楽しくいれたらイイなと、結局は、人だな、と思います。
さて、そろそろ次の方にバトンを渡します。私が、バトンを渡すのは、小森あやさんです。私がこの仕事を通して出会った素敵に面白く、魅力的な人で、現在は、TASKOという東京・祐天寺にある会社で働いています。彼女と出会ったのは、彼女がF/T(フェスティバル/トーキョー)で働いているときで、その後、彼女は劇団の制作を経て、現在の仕事に就いています。私のように、劇団付きの制作だけの経歴とは異なり、様々な現場での経験がある彼女には「制作者が育つ環境には何が必要だと思いますか?」を聞いてみたいと思います。私と小森さんは、同じ歳で、一番下っ端で、何事も経験と言っていた時期から、徐々に自分より若いスタッフとチームを組んだり、会社の中で人も育てるような立場になってきただろうと思います。また、私も、いくつかの現場を経験する中で、自分より若くこの仕事を志す人になかなか出会う機会が少ないことも、本来は現場の数だけ必要な人材が業界的に足りていないのでは、と感じています。「そんな、育てるとか、全然考えてない!」という答えでも、アリですが(笑)、舞台業界という大きな話でなくて良いので、音楽や美術など、多ジャンルに渡る小森さんの経験から話を聞いてみたいなと思います。