流山児祥さん
演出家・俳優の流山児祥さん。40年近く演劇に関わってきた「アジアのアングラの帝王」です。今回のインタビューを聞くだけでも、そのバイタリティの高さに驚かされました。また、今回インタビューのきっかけを作っていただいた、劇団あおきりみかんの松井真人さんにも同席していただきました。
卒業の年に演劇でもやってみようかと

演劇を始めたきっかけを教えていただけますか。

■流山児祥さん(以下流山児):芝居の記憶は子供の頃、姉が出ている地歌舞伎『勧進帳』を観て、面白いなと思ったのがきっかけ。

その頃おいくつでしたか。

■流山児:3つか4つですね。初めて芝居をやったのは小学生かな。中学では演劇部に入って。九州の炭坑町。その後千葉の流山ってところに引っ越しましたが、その時はやってませんね。映画研究会と新聞部だった。高3の時、東葛飾高校ってところなんだけど、東大に20人くらい行くエリート高校、で、普通だったら受験勉強しなきゃいけないんだけど、何故か、芝居やろうと急に思い立って演劇部に入った。

高3ですか?

■流山児:高3。1、2年の時はサッカーとバレーボールをやっていたんだけど、卒業の年に演劇でもやってみようかと。美少女の後輩が目当てだった(笑)。高校1、2年の時はクレイジーキャッツが流行っていたので、真似をして、文化祭のクラス対抗で芝居をしていた。あの時、初めて芝居の台本を書いたんじゃないかな。クレイジーキャッツを自分たちのお話として作っちゃった。まんまパクリ。歌とか踊りとかいれて。それから、丁度、ビートルズの時代だから、バンドでベンチャーズとかビートルズをやっていたよ。俺、ボーカル。

高校を出てからはどのような活動をされていましたか。

■流山児:青山学院大学入学と同時に演劇研究部に入部。当時の青学劇研の先輩は劇団四季とか文学座にいた。四季もその頃はミュージカルとかやってなくてジャン・アヌイやジロドウのフランス演劇をやっていたまだ若い劇団だったんだよ。そこに先輩が居たから、どうしてもそういう芝居を観るし、演るって時代ね。アーサー・ミラーとかテネシー・ウィリアムズとか。『橋からの眺め』『ガラスの動物園』『ひばり』という作品をやっていた。大学でのデビューは『ひばり』のちょい役と、いま思い出したけど、『橋からの眺め』のロドルフォって役じゃないかな。2年生になったら、フェルナンド・アラバールの『戦場のピクニック』を学園祭で1日6回上演なんてことをやっていた。で、B・ブレヒトとか安部公房の『制服』なんて作品をやって、2年の終わりから3年にかけて青山学院大学でも全共闘運動が始まった。3年生になって、唐十郎さんの紅テントを観て「ああこういう芝居もあるんだ」と、衝撃は凄かったね。で、4年になって状況劇場に入団したんだ。それから人生変わって行った。 まあ、それから40年も芝居やっているんだけどね(笑)。

熱いコミュニケーションだったんだろうね

どのように変わっていったのでしょうか。

■流山児:状況劇場をやめて、早稲田小劇場という劇団に入団して、そこも辞めて1970年に『演劇団』という劇団を作る。名古屋の話をすれば、1972年に七ツ寺共同スタジオのこけら落しが『夢の肉弾三勇士』。79年までは作・演出をやっていた。演劇団の後期には山崎哲や野田秀樹という劇作家が新作を書き下ろしている。70年代40本ぐらい自分で作・演出していたんだね。俺が筆を折ったのは、野田秀樹という劇作家に会ったから。78年だと思うんだけど、『夢の遊眠社』という劇団の芝居を観て、凄い才能がいるんだ!9歳も下にこういう天才が居るんだったら、絶対勝てねえな、と劇作家やめた。野田秀樹や山崎哲という優秀な劇作家に出会ったことが演出家、プロデューサーになるきっかけだった。あの頃は元気だったんだよ、たまたま打ち上げの席で乱闘になって・・・・・。今思えば、ほんとに「金の卵」を逃しちゃったってことになるね(笑)。

どうして乱闘になったのでしょうか。

■流山児:それはちょっとしたことでしょうね。当時は、ほんとに意味なく喧嘩してた時代で、俺、何回もパクられてる(笑)。ま、馬鹿で、元気だったってことでしょうね。『夢の肉弾三勇士』のツアーでは毎公演ごとにヘルメットを被った学生達が突っ込んできたりしていたよ、いやほんとの話(笑)。まず乱闘。その当時は何処でも同じような乱闘があって、それはある意味「礼儀」というか「挨拶」というか熱いコミュニケーションだったんだろうね。なんて言うかな。一遍ぐらい、「喧嘩」しないと駄目なんじゃないかな、なんて感じ。でも、殺し合いになったかといったらならなかった。劇作家の山元清多さんには、俺、38年前黒テントと乱闘事件の時、丸太で瞼の下を殴られて入院、いまも傷、残っている。でも、今では流山児★事務所やパラダイス一座の座付き作家とでも呼ぶべき存在になっている。喧嘩したからこそ山元さんとは一生付き合える関係になったんだと思う。本当に、暑苦しいくらい熱かった(笑)。喧嘩して殴り合いに至るようなことをしながら熱いコミュニケーション取っていたのかもしれない。72年の七ツ寺でも赤いヘルメット被った学生たちが突っ込んできたよ。山崎哲にしたって野田秀樹にしたって喧嘩したが今でもきっちり付き合っている演劇的知性を備えた最も優秀な戦友だと思っているよ。今年、つかさんが死んだのはそういう意味ではショックだね。

演劇って自由なんだ

いまそういうのはほとんどないですね。

■流山児:ないだろうね。俺は生まれてからずっとそういう所にいたからね。炭坑町だし。子供の時から喧嘩ばっかり見て大きくなった世代だから。もちろん、暴力はいけないことだよ、当り前のこと。だけど、70年代には演劇でどんなメッセージを発せられるか?が問われていた。喧嘩の原因はその方法の違いだったんだろうね、そのいま考えたら喧嘩する暇あったらお前らちゃんと芝居やれよと思うんだけど(笑)。あの時代が生んだモノだと思いますよ。集団を純粋に志向していくと、そういう風にならざるを得ないところがあった。だから俺たちは連合赤軍やオウム真理教にならないよう集団を如何に?するのかをずっと探し続けてるんだと思う。演劇やるヤツってどうしようもない奴らばっかりだったんだ、あの頃は。新劇はエリートがやっていた。お坊っちゃま、お嬢さまが演劇をやっていた時代。そういう人たちが当り前だった。日本演劇の歴史はそうだよ。そうじゃないのが始まったのがアングラなんだよ。誰でもやれるんだ、どこでもやれるんだ。なにをやってもいいんだ。それが天井桟敷・状況劇場・早稲田小劇場・黒テントがやったこと。無名のエネルギーを持った若いヤツラが無手勝流で演劇をやりだしたのが俺らの時代だったんだよ。俺は名古屋の劇作家と38年間ずーっと付き合ってる。それは名古屋が面白いから。つまり東京のような上昇志向というか、商業的なものしかない連中とは違うんだよ。名古屋の連中は。それが面白い。ウケる、ウケない、じゃなく「持続する力」を持っている。それが、面白い。つまり芝居ってうまい下手じゃなくて「生きている」ことと同じなんだよ。それだけでいいと思う。例えば平均年齢80歳のパラダイス一座の演出家の大先輩が銀行強盗の芝居やったりとか、なんでもやれる訳。「これが演劇」というのはない。なんでも芝居っていうのはやれる!それを俺に教えてくれたのが60年代後半のアングラ演劇を作った唐十郎や寺山修司や鈴木忠志だった。喫茶店でやってたり、駐車場でやってたり、テントでやってたり、街のど真ん中でやったり、しているアングラ演劇観て育ったから面白かったね。多感な青春時代に「演劇って自由なんだ」ということに出会えたことが、今の流山児祥を作ったんだろうね。

色んな人がいるということを大前提に

特に影響を受けた人物、作品はありますか。

■流山児:鈴木忠志に「演出」と「ニンゲン洞察」を教わった。唐十郎には「社会の中でどうやって戦うか」と「興行とは何か」を教えてもらった。寺山修司にはどうやって「自由に世界に向かって走っていけるか」を教わった。佐藤信には「運動」と「集団的想像力」を教えてもらった。アングラ四天王と呼ばれるこの4人の演劇人に共通してるのは社会だよね。演劇が「世界=社会と繋がっている」ということを教わった。『他者』を教えてくれた。『他者』を知らない人間があまりに多過ぎると思う。「私なんかいない」と思えばいい。極論だけど。「私」なんかとっくにいないんだよ。私は『他者』との関係性の中でしか存在しない。俺は集団という関係性にかけるしかない舞台芸術である演劇は実に面白いシロモノだと思っている。

演出するうえで特に気をつけていることはありますか。

■流山児:テキストの問題もあるけど、やっぱり役者だよね。役者がどこにいられるか。どうやってものを作るか。それを一緒に探すこと。もの凄くシンプル。テキストがあって、集団で色んな風にテキストを読む訳。この読み方しかない、というのはない。『わたし』というのはいない訳だから、集団で作る原則。集団的想像力というか、妄想力が役者の仕事だろうね。つまり、俺は『誰かの作品』っていうのが嫌い。集団で「こういうものを作りました」という現状確認。世界の何処にもない新鮮なものを全エネルギーを注ぎ込んで創り上げる。駄目な時は馬鹿な演出家である俺の責任だから、その時は謝っておけばいいんじゃないの(笑)。「関係性の現在」が常に見えるんだよ芝居には。その「集団の関係性の現在」をどうやって見せるか。時には、誰か浮いてしまったりする訳だ。でもカンパニーでなるべく全員が何処を向いているのか?を確認をしながら、どうやったら面白いものを作れるかということを気配りして、自分の思ったことを、変る事を恐れずにやっていく。それだけですね。

『気配り』という単語が出て来たのは意外でした。

■流山児:否定するのは簡単なことなんだよ。でもまず、違いを認めてどうやって協働作業をやっていくかだ。演劇には上手い下手はないんだよ。それぞれ真剣に考えていることを、俺も真剣に考えて、どうやったらもっと面白くなるんだろうと取り組む。色んな人がいるということを大前提に。皆、違うイキモノなんだ。テキストを皆で真摯に読む、集団で真摯に読むということ問われるんだよ。面白いところがあったら「それ」を使う。だから、一ヶ月も二ヶ月も稽古に時間をかける。演出家がこうやって喋れ、こうやって動け!は絶対駄目。時々、そんな演出家見ていると、「なに言ってるんだ、この馬鹿」と思うね。皆で考えるのは当り前のこと。俺らが、どうテキストを読むかだ。

当事者性がなさ過ぎるんだよ

一緒に活動するうえで相手に持っていて欲しい素質、要素はありますか。

■流山児:お金持ちだったら嬉しいね(笑)。これは冗談だけど、ある意味で俺に全くないものがあるヤツだと嬉しいですねそれは。経験もそうだし、感性もそうだね。歌とか踊りだとかもそうだと思う。へんてこりんなこと考えている奴、なんでコイツこうなるんだというヤツには興味がある。最近、高齢者や、身障者の人とか、色々な人と演劇作っていると「いまやってる演劇は本当にこれでいいのか」と思うよ。

むしろ演劇に関わっていない方のほうが刺激をくれる。

■流山児:そりゃそうだね。それから、演劇に興味ない人に、どうやって振り向かせるかを考えないといけない時代だと思う。いまこの周りでダベっている人(喫茶店の多くの客)をどうやって劇場に、演劇という場所に引っ張り込むかということが問われている。経済性を最優先にするんではなく、皆で知恵を出し合って、どうやって演劇空間を作るか。劇場というのは人と人とが出会う場所であって、劇場は「ある」のではなく「なる」ことを忘れているんだよ。管理されたものでなく、管理されない《自由空間=アジール》を作ることがぼくらの仕事だと思う。自由で管理されない場所。解放区。元々、政治とか権力からもっとも遠いところに演劇はあった。お寺だったり広場だったり集会所だったり村祭りだったり。移動する劇場というのを作っていけば。もしかするとできるかもしれない。そういう夢想を全員で共有できるか。誰でも入って来られる場所を保証できたらいいな。今考えているのは、30分で100人の芝居小屋に出来るトラック劇場を作ることを夢想している。そのトラックで全国の限界集落に芝居を持っていく。これは絶対面白いゾ。俺、案外マジでこれ、考えている(笑)。それも俺らだけがやるんじゃなくて、興味のある連中がいたら全国の演劇人とネットワーク作って皆でわいわいやる。やりたい奴は集まれ!トラックは貸すからって!トラック買うカネがいるなあ!スポンサー探そう!(笑)。

とても凄いアイデアだと思います。

■流山児:2011年から流山児★事務所は『レパートリーシアター』といって寺神社周りの作品を作り始める。寺山修司の『花札伝綺』、三島由紀夫の『卒塔婆小町(そとばこまち)』、俺と北村想の2人芝居『浮世根問』。『狂人教育』『ハイライフ』を加えて5本のレパートリーはどこでもやる。照明は無くてもいい。音響はラジカセ。でも、芝居としてはむちゃくちゃ面白いものを作る。衣装とかメイクに関しては凄いものを作る。そりゃ、照明あれば使うよ。使わない訳じゃない。無きゃ無くてもやれるっていう芝居を作りたいんだ。ぼくは役者だから言うんだけど、今の演劇の衰弱の問題はやっぱり役者だと思う。あまりにも考えない役者が多過ぎるんだよ。本来、日本の演劇は役者の歴史しか無かったんだよ。歌舞伎はその典型で、5代目とか6代目とか名前が残っていく訳じゃない。演者の歴史が残っていく。ところが近代から現代になってきて、作家、演出家の時代になった。そうじゃないと思う。作家も役者もスタッフも同じ。当事者性がなさ過ぎるんだよ、俳優に。あなただったらどうするというところが演劇は常に問われているんだよ。

お互いを必死に見れる関係を持続したいね

演出家にとって一番必要な能力はなんだと思いますか。

■流山児:自分でも分からなくなることはあるけど、演劇が好きだってことはまず大切、で他人が好きだってこと。んー、あと、キチンと謝ることですね(笑)。

謝ること、ですか?

■流山児:そう。間違っていたら謝る。素直に謝る。最近はそう思うよ。昔は絶対謝らなかったけど。ぼくが謝ることでなんとかなるなら。謝る、の早過ぎるとまずいけど(笑)。でも、そういう関係の中で生きていくしかないじゃない。

長く演劇に関わっておられて、様々な活動をされていますが、これまで続けられてきた原動力はなんでしょうか。

■流山児:劇団員がいるということ。あと、北村想や天野天街や佃典彦みたいな馬鹿な友人が名古屋にいること(笑)。同志というか戦友、その関係性の中で生きていると思うから。なんで、続けられているかというと、一緒にやってくれる役者やスタッフがいるから俺、「劇団」やめないんじゃないのかな。同世代のほとんどが劇団やめてるからね。俺と山崎哲と柄本明はやってるか。こうなりゃ、意地みたいなもんだよね。

演劇の面白さ、魅力をどのようなところに感じますか。

■流山児:人間だよね。人間っていうのは面白い、色んな意味で。お互いを必死に見れる関係を持続したいね。それなくなったらやめますよ。自分のやりたいことがある訳じゃん。劇団員のやりたいことがある訳じゃん。うちは作も演出も違うし、50人近くのへんてこりんな人間たちが稽古場を共有してる。それが「劇団」の一番素敵なことなんじゃないかな。

もっと身体を信じた方がいいよ

これからどのような活動をされていきたいですか。

■流山児:レパートリーシアターで劇場じゃない場所を劇場にしていく。これがライフワークになるでしょうね。行ったことない場所に行ってみる。これまでに何百本も芝居作ったけど、案外日本をちゃんと見てなかったなと思う。ちゃんと日本を歩いてみようとおもっている。勿論、海外にもふらっと行くよ。旅する演劇。素寒貧から始めればいい。どこでも行きますよ、俺と北村想は。芸者みたいなもんですよ。1ステージ2万円ぐらいギャラ貰えたら嬉しいけど。簡単だよ、身体があればいいんだよ。病気になったらそれはそれでいい、病気の身体も身体なんだから。こんなこと言っていて、俺、いつ倒れるか分からないけど。でも怖がっていてもしょうがない。あとは、どうやって街の中に入っていくか。とにかく、普通の人に観てもらいたい。いまは、芝居屋同士で観合っている現状は相互扶助のようなもの。あとは情報の共有化。私物化しない。演劇は基本、原始共産主義なんだよ。役者に必要なのは想像力で、情報じゃない。情報を咀嚼して考える力。いまの人間は情報に踊らされている。情報帝国主義の時代。もっと身体を信じた方がいいよ。まあ、あんまり悲観的に考える必要はないけどね。

■松井真人さん:寄れば戻りますからね。

■流山児:そうだね。行き着けば必ず戻る。あれはあれで面白い。こんな感じかな。

ありがとうございました。とても楽しかったです。