普通の人がいない
小熊さんが演劇を始めたきっかけを教えてください。
■小熊ヒデジさん(以下小熊):ええとですね、大学行く前に浪人をしていた時、新聞記事にぼくの高校の同級生が自主制作映画の上映会をやるということで、今後に向けてスタッフを募集していたのですが、連絡したんですね。
スタッフとして。
■小熊:そう。大学も決まった時で、なにもやってなかったので。なにかやってみたいなと思って。「もし必要ならやりたいと思うんだけど」と、そういう連絡をしたら、「じゃあ一緒にやろうか」と。それで初めて七ツ寺共同スタジオに行って。その後作った映画に小劇場の俳優さん達が出演していて、それで演劇業界の人たちと仲良くなったというが最初のきっかけです。
そこから舞台に出られるようになったきっかけは。
■小熊:七ツ寺共同スタジオでは当時『TPO師★団』という劇団が経営していて、ホームグラウンドにもしていた。映画は一年中作っている訳ではないので、そういう作業のない時に遊びに行ったりしていて。小劇場演劇というものをやっている人たちと会ったのが初めてだし、そういう存在を知ったのも初めてだったので、凄く興味を持ったんです。それで公演の手伝いとかしていて、そのうち、七ツ寺に出入りしている他の劇団の人とも知り合いになって。それから『パトラ風色劇場』という劇団の事務所になってるアパートに居候することになったんですよ。その当時瀬戸の実家に住んでたんだけど、毎日名古屋に居るのでどこか住むところを探していて。まあ劇団の事務所だから、打ち合わせとか当然ある訳で。その時に「次の公演に出ない?」と言われて。そこの芝居に出たのが初舞台です。
どんな役だったのか覚えていますか?
■小熊:ミニコミの編集者。当時名古屋に『名古屋プレイガイドジャーナル』ってあって、その編集者。
初舞台の感触はどうでしたか。
■小熊:芝居どころじゃなかった。演技どころじゃなかったです。なにをしたらいいのかさっぱり分からない状態でしたね。
その後も演劇活動を続けて行かれる訳ですが、初舞台を踏むことでなにかしらの魅力を感じたのでしょうか。
■小熊:最初七ツ寺に出入りし始めて、演劇なんて興味なかったんだけど、演劇をやってる人たちに凄く興味を持ったんですね。当時は先程言ったようにTPO師★団が七ツ寺共同スタジオを経営していたのね。だから四六時中誰かがいて、そこで寝泊まりしている人もいて。そういう状態だったんだけど、ぼくが19の時、当時師★団の人たちが20代中盤から後半にかけての年齢で、10代のぼくから見たら大人なんだけど、普通の人がいない(笑)。就職してる人もほんの少しだったように思うし、ぼくが思っていた一般社会人という常識とは全く違う人たちがそこに居た。仕事のことだけじゃなく、立ち振る舞いというか様子。僕には師★団の人達が怪物に見えた。それにカルチャーショックがあって、凄く惹かれたんですよ。初めてTPO師★団の芝居を七ツ寺共同スタジオで観た時、桟敷席だったんですけど、目の前のほんの数メートル先でいい大人が大きな声出してお芝居してる訳さ。演劇というのは、ホールがあって、客席があって、そこで観るものという固定観念があったんだけど、そんなものは全然なく、本当に目の前でお芝居をしている。まず「恥ずかしくないのかな」と思ったし、何事が起こったのかと思ったし、子供がたまたまいたんだけど、子供に観せていいのかと思ったし。なんかふんどし一丁になって。当時ふんどし一丁というのはよくあることだったので。だから、そういうことをやってる人たちに惹かれた。それから引きずり込まれた感じはありますね。
くだんのくだん
そこから『てんぷくプロ』に加わりますが、その経緯を教えてください。
■小熊:その人たちと会ったのは19なんだけど、初舞台は23。それまでは映画作ってたり、あとダンスやってみたり。それで初舞台をやってみて、そこの劇団に何度か出たりとか、知り合いのプロデュース公演に何度か出たりして。あ、それでね、TPO師★団が解散したんですよ。想さんは彗星(彗星'86)を始めて。で、TPO師★団の矢野健太郎さんが『矢野健太郎プロデュース』公演というのを始めたんです。3回やったんですよ。そこにぼくも加わらせてもらって。それで3回目が終わった後に、経緯を覚えてないんですけど、中心的にいたメンバーが劇団にしないかという話をし始めて、ぼくもその末席に加わらせていただいて。当時は矢野さんと入馬券と、現在は熊本の劇団にいる卓草四郎さんと、守乱丸さんと、あとぼくだったんです。で、その5人で劇団にしようかということになって、旗揚げに参加させてもらったんです。
どういう経緯でてんぷくプロという名前になったのでしょうか。
■小熊:矢野健太郎プロデュース公演が3回終わって、てんぷくプロの旗揚げまでの間に合同の野外公演があったんです。それは矢野健太郎プロデュースと彗星とあとはpH(劇団pH-7)かな? なんかそのくらいのメンバーが中心になって野外のテント公演をやったんです。その名前が『てんぷく笑劇場』。ぼくはそれにはあまり関わってなかったんだけど。それが終わって劇団にしようってなった時に名前を色々考えてたんだけど、良い名前が思い付かなかったので、その合同公演の名前を頂いたんです。プロ……。プロは、確か歌とか踊りとかもやりたいねって話をして、矢野健太郎プロデュース公演の時は確かにレビューをやったりとか。アングラをやってみたりとか、喜劇をやったりとか、色々やってみたいねって、プロダクションじゃないけど、そのような意味合いで付けたんじゃないかな。
よくてんぷくプロには「皆様と共に走る」という一文が添えられていますが、あれを含めて団体名なのでしょうか。
■小熊:てんぷくプロっていうのが団体名。「皆様と共に走る」というのは、卓草四郎がなにかの折りにキャッチフレーズみたいにして口に出したんですよ。それが非常にキャッチーだったんで、好んで皆が使っている。正式な劇団名ではないです。
てんぷくプロは来年、25周年だそうですね。
■小熊:四半世紀ってすごいね。特に周年事業はやらないと思いますけど。てんぷくプロではとても多くのことを学びました。今も学んでます。だからとても大切な場所だし。とても好きな場所だし。これからもアトリエでの活動や劇場公演や、プロデュースなんかも色々とアプローチしていきたい。色々なことを試してみたい。前のアトリエ『金融品販売秘宝館』での活動は、名古屋演劇史の上でもっと評価して欲しい(笑)。
その後、小熊さんは『KUDAN Project』を立ち上げますが、その経緯について教えてください。
■小熊:95年かな。その時はKUDAN Projectじゃなく、ぼくが二人芝居をやりたかったんです。相方はもう決めてたんですよ。ただ、この二人芝居を誰の脚本、演出でやったらいいのかというのはずっと迷っていたというか、探していたんですよ。それでたまたま天野天街と合同の野外公演で一緒になったりとか、てんぷくの『巷談風鈴横町』を天野天街が演出をしたりして。それをやってみて、これは天野天街しかいないかなと思って。それで風鈴横町をやった後、どこかの飲み屋で飲んでる時に「二人芝居をやりたいと思ってるんだけど興味ある?」と聞いたら「ある」というので。それが『キコリの会』って言うんです。それが最初でした。それで98年に東京の『タイニイアリス』が海外公演をプロデュースをしていて、その企画で海外に初めて行くことになって、そこで初めてKUDAN Projectになったんです。
最初は二人芝居の為の一回だけのユニットだった。
■小熊:そうですね。
KUDAN Projectの名前の由来を教えてください。
■小熊:最初の上演作品が『くだんの件(けん)』という作品だったから、当時制作やっていた人がつけた。
「件」って「くだん」って読みますよね。
■小熊:だから『くだんのくだん』(笑)。
一本芝居作るつもりでやらないと
小熊さんがこれまでに影響を受けた作品や人物があれば教えてください。
■小熊:好きなのはジョン・レノンと古今亭志ん生です。演劇関係で影響受けたのはその時々でたくさんあって、誰が一番という訳ではないんだけど、やっぱり一番最初に大きなインパクトを受けたのはTPO師★団の人たち、でしょうね。北村想さんとか、矢野健太郎さんとか、火田詮子さんとかいたんですけど。TPO師★団の人たちが入り口だったので、なにしろ。それが一番大きくて。その後もその時々で色々な人たち、作品の出会いもあったし。
古今亭志ん生の名前が出たのは意外だったのですが、落語好きなんですか?
■小熊:好きです。割と聞くほうだと思います。談志。円生。枝雀も好きだし。金馬も好きだし。
そういうのを小熊さん自身でやってみたい気持ちはありますか。
■小熊:やってみたい気持ちはあるけど、やるとなると大変だな。一本芝居作るつもりでやらないと。機会があればやってみたい色気はあるんだけど。
是非やってください。観に行きます(笑)。
■小熊:(笑)。
演劇活動をするうえで、相手に持っていて欲しい要素や能力はありますか。
■小熊:求めるスキルとは違うとは思うんだけど、お互いに面白がれる人がいいのかな。共演という意味で。一緒に面白がってやれるといいかな。
台詞覚えは良いほうですか。
■小熊:悪い。良くない。だからかなり一所懸命覚えないと覚えられない。
役を頂いて、舞台にあげるまで、どういう風に役を作っていきますか。
■小熊:台本があればもちろん台詞を覚える努力をします。それから役をイメージして、あとは現場での擦り合わせかな。芝居の稽古なんて現場で生まれることが圧倒的なので。相手の俳優に拠るし、あとは演出家の意向もありますよね。それによって自分の中のイメージを変えていかなくてはいけませんし。
自分の持っていたイメージと演出家のイメージが違う場合はどのように擦り合わせしますか。
■小熊:話はしますね。「こういうつもりでやってたんだけど」って。演出家から「いやそうじゃなくて」と言われることもあるだろうし。やっぱり演出に向けて芝居をやっていくしかない部分はあるので、演出が求めているものを自分の中で探すかな。もう全然かけ離れているというのはあんまりないから。ただ割と離れているということはあるし、それで修正したこともあるんだけど。それは修正可能ですね。一般的な俳優は分からないけど、ぼくは自分のやりやすい、イメージしやすいほうに行きやすいんですよ。平たく言うと演じやすいように演じてしまいます。演出家が違うと言うことは、ぼくがイメージできなかったなにかを要求してくる訳だから、それはむしろありがたいかなと思います。キャパシティが広がると思うので。自分だけならこれだけのイメージしかできなかったものを、当然演出家も俳優を見てそういうオーダーを出してくる訳だから。違うものを出せという要求があるということは、ありがたいです。嬉しいものです。
小熊さんは演出もされますが、逆の立場になった場合はどうされますか。
■小熊:ある程度の要求はしてると思います。それは俳優を見て、この俳優はこの役をするうえで、こうしたほうが魅力的に見えるだろう、というところでもオーダーがあって。要求はしますね。俳優って気が付かないんじゃなくて、気が付けないことってよくあるんですよ、やってて、自分で。指摘されないと「ああそうか」って気が付けなかったり。だから言ってもらったほうが助かるかな。
ぼく自身がそういう場に居たい
小熊さんは『名古屋演劇教室』を主催されていますが、その活動を始めた経緯を教えてください。
■小熊:ぼくは元々芝居というよりも、映画をやってた頃から制作をやってたんです。だから芝居をやってても俳優兼制作ということをずっとやってて。それで、てんぷくプロで演出を主にやる期間もあって、演出と制作を兼ねるのが大変で一時期離れていたんだけど、以前からまた制作やりたいなと思っていて。また、ここ5年くらい東京で客演する機会が多くて、東京の芝居を観る機会も多くなって。30代くらいかな、新しい世代の演劇、現代口語演劇を観る機会がとても多かったんですね。それがことごとく面白かった。口語劇だけじゃなくって、他にも面白い芝居いっぱい観たんだけど。この勢いというのは凄いなと。あと色々な環境とか土壌があって、そういったものが一気に出ているのかなと思って。そういうのを目の当たりにしてですね、なんか放っておけないなと思ったんです。名古屋で活動している身としては。俳優として面白い芝居に出たいというのがあるじゃないですか。面白い芝居に関わりたいというのは当然あるので、そういう作品とか団体でもいいし、人材でもいいんだけど、たくさん出会いたいと思うんです。ぼくは名古屋の人間なので、名古屋でそういう作品に出会いたいんですよね。面白い人材であるとか、面白い演劇に出会いたいと思う。その時に、俳優として精進するというのもひとつあるんだけど、制作としてなにかできないかなと思ったんです。それで名古屋の演劇状況みたいなものを活性化させたりとか、環境整備したりとか、ネットワークを作ったりとか、そういう作業を演劇教室でやりたい。東京や大阪に比べて名古屋の演劇人口は格段の差があり。で、その物量の差はかなり大きいと思うのですが、それをいきなり増やすのは不可能だから、制作的な方向でなにかできたらと思って始めたのが名古屋演劇教室。
とても素晴らしい活動だと思います。
■小熊:北九州に行った時に、現地で制作をやっているある人に触れた時、「この人はひとりで北九州の演劇状況を変えることができるんだな」と感じたんです。ひとりの優れた制作者、プロデューサーがいるかいないかで環境が大きく変えられるんじゃないかと思ったんです。他にそういうことをやってくれる人がいればいいんだけど、ちょっと見当たらなかった。だからぼくが始めてみようかと。『初心者の為の演劇ワークショップ』は間口を広く。演劇というのは入りにくいイメージがあって、なかなか踏み込めない、一般の人が。現に色々な劇団を見ても大学演劇部出身の劇団が大半だと思うんだけど、そうじゃなくって、一般の人も観る側じゃなくってやる側になれますよ、と、演劇の楽しさみたいなものを多くの人に知ってもらいたいという思いが演劇教室にはあるんですよ。だから少しでも底辺を広げたい。
もし役者にならなかったとしても観る側に回ってくれるかもしれませんね。
■小熊:その方がひとりでもお客さんを連れてきてくれれば、より増えていくだろうし。それと『俳優の為の短期集中講座』というのは、出会いの場を作りたいと思ったんです。演劇というのは生の舞台を観てなんぼだから。でも実際に東京まで芝居を観に行くのは大変じゃないですか、経済的にも時間的にも。だったらば、こちらに呼んで、体験してもらえばいいんじゃないかと。こちらで演劇活動をしている人を対象に、そういうアーティストの人たちと創作過程を共にする機会を持てて、交流も出来てという場になればいいなという思いがあって。それが将来的にはできれば一緒に芝居も作ってみたいなと思うし。劇団の招聘も考えたいし。東京だけじゃなく、色々な地域で活動しているアーティストもいる訳だから、そういう方と名古屋の俳優とのコラボレーションなんかも手掛けていきたいなと思います。そういう風になんらかの制作的な面で名古屋の演劇界に色々な刺激を与えていきたいなと思う。そういう場に居たいと思う。ぼく自身がそういう場に居たい。