矢野靖人さん
名古屋出身で、現在は東京でshelfの主宰をされている演出家の矢野靖人さん。自らの思い描く演劇空間を具現化する為に日々邁進している、ひたすら真っすぐな印象の方です。
人間という存在の不可思議さ

矢野さんが演劇を始めたきっかけはなんでしょうか。

■矢野靖人さん(以下矢野):直接のきっかけは・・・大学で、大学では批評とか言語哲学などを学んでいたのですが、学んでいるうちに二次文献の批評を読むよりもっと一次の小説とか、あるいは、表現をすることそのものに興味の対象が移って行ったんですね。

より厳密にいえば、世の中にあふれる表現と呼ばれるものも、純粋にオリジナルなものなんかなくて、すべて、何かに対するリアクション、レスポンスとして製作されている。製作者が自覚的であろうと、無自覚であろうと。

批評を好んでいたのもそういう事象に興味があったからなのですが、そんなときに仲間に誘われて俳優をやってみたら、とても面白かった。言葉と自分との関係というか、書き言葉を弄んでいるだけでは届かない、身体性をもった言葉と、ひいては人間という存在の不可思議さに触れることができた気がして、それで演劇に興味を持ち、じっさいにやり始めた。

ただ、思えば演劇的なこととの出会い自体はもっとさかのぼれて、例えば小学校一年生のときに学芸会で主役(「王様とチーズとねずみたち」という演目で、王様をやった。笑)をやっていたし、大道芸やパントマイムが好きで、テレビで大道芸のフェスティバルなどをやっているといつも見ていて、雪竹太郎さんとか、カナダのミシェル・クルトマンシュが大好きだった。

そういう意味で、自分がやっていることはともかくとして、今でもパフォーマンス性の高い表現が好きで、趣味として好んで観るものはそういうものが多いですね。日本だとパパ・タラフマラとかク・ナウカ、山の手事情社とか、あと海外だとやっぱりピナ・バウシュはいつ見てもすさまじいなあと思うし、本数は見てないけどテアトル・ドゥ・ソレイユとか、ル・パージュとか、フィリップ・ジャンティとかも大好きです。

演劇に関わってからshelfを立ち上げるまでの経緯を教えてください。

■矢野:大学で仲間と演劇を始めたころはもっぱら俳優をやっていましたが、(札幌にコンカリーニョという倉庫を改装した劇場があって、そこのプロデュースでテント芝居などに、二三回出演させて頂きました。)途中から演出にも興味を持って。学生時代には、今から考えるとそれは「演出」とはとても呼べない作業でしたが、それでも二度ほど演出をしたこともあります。

それで、演劇を本格的にやりたくなって、大学を卒業する年に、就職活動もせずに東京の劇団の入団オーディションを受けに行った。それで、俳優では不合格だったけど、演出部で入団を許可されたのが、劇団青年団です。

けっきょくそこには1年ちょっとしか居なかったのですが、ずいぶんいろいろなことを学ばせてもらいました。とにかく、プロフェッショナルな演劇の現場経験がぜんぜんなかったので、当時は本当に何をやっても初めてのことばかりで相当苦労しました。

青年団では若手自主企画という名称で1本演出をして、退団後は縁あって劇団かもねぎショットの演出助手や、そのつてで大道具や舞台監督助手、演出助手のような仕事を続けていました。shelfを始めてからもしばらくは、続けていたかな。その頃にいろいろな舞台、小劇場だけでなく、それこそ青山劇場とか、1,000人以上入る舞台の袖に一ヵ月以上ついていたり、ロシアのダンスカンパニーの日本国内ツアーに一ヶ月近くついて回ったり、歌舞伎俳優の襲名披露の袖で大道具を動かしていたり、ダンス教室の発表会の舞台監督助手をしたり。

今僕がshelfでやっていることに直接役立っているようなことはほとんどないけれど、一口に舞台とか演劇とか言っても本当にいろいろあるんだなってことが肌で実感できたというか、こういう経験があったおかげで、視野狭窄にならずに済んでいるところがあります。小さな“小劇場村”だけを相手に演劇を考えずにすんでいるという。

shelfを始めたのは、一人の俳優との出会いがきっかけですね。今はもうshelfをやめちゃったんだけど、一本頼まれて他の劇団で演出したことがあって、その時に出演していたフリーの女優と意気投合して、来年一緒に公演を打とう、と。それで、カンパニーとして活動を開始しました。

衝動のようなものを抱えている人間に惹かれます

演出上で特に気をつけていることはありますか。

■矢野:shelfを旗揚げしたきっかけもそうなのですが、基本的に先ず俳優と出会うか、戯曲と出会うか、それとも気になる空間と出会うか。基本的にはそれらがあって、二つ以上重なった時に企画を考え始めます。素敵な空間と、そこに立たせたい俳優がいて、戯曲を探すとか。戯曲と空間があってそれから俳優を探すとか。自分の中でどれが欠けても説得力がなくなるので、三者(俳優と戯曲と空間)がうまく、ミックスアップするような点を探し続けていますね。

役者に求める要素はありますか。

■矢野:先ず最低限必要なのは、発話という意味での言葉も含めた、その俳優の身体のユニークさですね。あとは、言語が共有できるかどうか。一緒に仕事をするという意味では、何よりもまず同じものを面白がれるかどうか。面白がり方は全然違っててもいいんですが、最終的に目指す地点というか、同じ方向を見て突っ走ることが出来ないと、一緒に作業していてもツライことが多いです。

理想を云えば、鍛えられた身体、まっすぐに立つことが出来て、まっすぐに歩くことが出来て、且つ自分の重心と呼吸を自分でコントロールすることが出来る。たった今自分の辿った意識の流れと身体の挙動に対し、再現性がある。というのが、技術的な面で、俳優と呼べる存在に必要不可欠な条件だと思っています。

メンタルなことを云えば、自分自身に、でも構いませんが、人間に興味があること。

個人的には、何かが過剰だったり、何かが足りない、という衝動のようなものを抱えている人間に惹かれます。

矢野さんは素舞台を好んで使われるようですが、その意図を教えてください。また、素舞台の演劇における有利な点、不利な点を教えてください。

■矢野:素舞台を好む、というわけでは別になくって、たまたま素舞台の方が魅力を感じる劇場で舞台を作ってきた。というのが近いかもしれません。ただ、何もない舞台空間というのにはやっぱり惹かれる部分があって、今年、初めて野外で舞台を上演したのですが、野外に3間四方の白い舞台を設えました。

参照写真 この写真なんかを観て貰えると分かると思うのですが、いわゆる「素舞台」というのとはちょっと違いますよね。

建て込む舞台にも興味がありますが、今のところはどちらかというと能舞台とかギリシアの野外劇場のように、空間それ自体に形式があって、そのなかに収めるかたちでより自由になれるようなそんな劇的な空間を醸成したい、という思いが強いです。

有利な点、不利な点というのはあまり考えたことがなかったんですが・・・強いて云えば、有利な点は「見立て」で演劇的な空間を作っていくことになるので、結果として観客の想像力を喚起する力が強くなるということでしょうか。不利な点は・・・野外のように強い場所に比べて普通の劇場だと、物足りなくってやる気が失せる(笑)。

明らかに不自然な行為

稽古では身体作りを特に重視しているようですが、それに関するこだわりがあれば教えてください。また、呼吸を大事にしている印象がありますが、演劇における呼吸の重要性を教えてください。

舞台空間というのは、基本的に日常とはかけ離れた空間なんです。どこまで日常に近い所作で、自然に振る舞っているように見えても、不特定多数の他者(=観客)に見られている以上、それは、俳優の仕事っていうのは、明らかに不自然な行為なんです。

不自然という言葉が悪ければ、人工的な所作、作為的な行為だと言ってもいい。そしてそれには絶対に技術が要る。

楽器を演奏することや、歌を歌うことなんかを考えれば分かりやすいと思うのですが、歌を歌うなんて誰だって出来るし、ちょっと練習すれば楽器だって弾ける。ただ、素人とプロの歌手、演奏者には必ず大きな隔たりがある。その隔たりを作っているのはけっきょく広い意味での技術の有無なんです。技術のレベルが違うというか、身体の文法が違う。

そういう意味で、俳優に必要な技術は何か。それはけっきょく身体の遣い方以外の何ものでもない。

shelfでは呼吸と、あと重心のコントロールを訓練ではとくに大事にしているのですが、人間の意識的な所作、あるいは半ば無意識的な身体の挙動をコントロールするのに、呼吸と重心ってとても大事なんですね。人間は緊張すれば呼吸は浅くなるし、極端な話、嫌いな人の前だとあまり息をしなかったりする。楽しい気持ちのときには重心が胸まで上がっているし、戦う体の重心は腰のあたりに落ちている。

そういう、気持ち(心理状態)と身体の状態って連動しているのですが、人間、嬉しい、とか悲しい、とか、特定の気持ちを作る、特定の気持ちになるというのは実は意外と難しい。難しいしその日のコンディションによってブレが生じる。それに対し、身体をコントロールするほうは、ブレが少ないし確実性が高いんですね。

確実性が高いというか、演技っていうのは基本的に、役の気持ちがあってその身体が出来るのではなく、身体(の状態)を作ることによって、気持ちや感情の変化を作るものなんです。

なんだって古典を扱わないのか

shelfの舞台では主に古典を中心に扱われていますが、それは何故でしょうか。また、矢野さんが脚本を選ぶ基準はありますか。

■矢野:基本的に、今読んで面白いもの、切実なものを選んでいます。と同時に、そのまま読んだだけでは理解の出来ないこと、が、少なからず含まれてある戯曲を選ぶようにしています。

演劇というのは祭祀、儀式的な行為だと思っているので、ただ、日常の気分を再現したり、今の時代の空気や雰囲気を表象するだけのものには興味がない。

洋の東西を問わず古典として今に残っている戯曲は、いわば人類共通の文化遺産です。同世代の作家の書くもので、面白いと思えるものが少ないから、という消極的な理由もありますが、やっぱり、登るからには高い山に登りたい。

そもそもが、逆に考えれば、名古屋に限らず日本の小劇場では、オリジナルの戯曲を自分で書いて、自分で演出している人がまだまだ多いみたいですが、どうしてみんな、新作を書こうとするのか。それはなぜか? という質問がどうしてなされないかということのほうが僕には疑問です。なんだって古典を扱わないのか。

僕は両者は全く別物だと思っていて、作・演出を兼ねて新作を発表し続けているような人が例えばポップソングのシンガーソングライターだとしたら、僕はクラシックのオーケストラの指揮者になりたい。そういう、そもそもの演劇というものに対する姿勢の違い、みたいなものもあると思います。

深い自省を伴うもの

矢野さんが作品で最も表現したいことはなんでしょうか。特に全作品での共通点があれば教えてください。

■矢野:人間という存在の存在自体が孕むアイロニーというか、欺瞞性、矛盾、その愛しさや面白さを出来るだけ丁寧に舞台上に載せたいですね。

shelfの見所を教えてください。

■矢野:何かの代替表現としてのそれではなく、俳優の佇まいそのものと、古典戯曲の骨太なドラマですね。

観ていて我を忘れるようなエンターテイメントではなく、深い自省を伴うもの・・・そういえばあのとき自分はこんな風に感じたことがあったなあ。こんな景色を、自分も眺めたことがあったなあ、と、じっさいに舞台で起きていることとはときに関係のない、観客自身の深い記憶を自分で想起して、それをも一緒に楽しむことができるような舞台を作って行きたいと思っています。